有元センセのサッカーコラム③:絶対に負けられない闘い?

有元センセのサッカーコラム③

 もう2016年の2月になりました。早いもので僕が緑山SCのボランティアコーチを始めて1年が経ちました。この1年間、練習試合や招待大会、公式戦などでたくさんのチームと対戦し、それぞれの指導者のあり方、子どもたちのパフォーマンスに接してきました。また最近では研究者の友人たちと少年サッカーの現場について多くの意見を交換するようになりました。勝手に1周年ということで、今日はそうした中で見えてきた日本の育成現場の課題について、そして緑山SCの育成法について、かなり長文を書かせてもらおうかと思います。

 ところでその前に、先日行われたU23アジア選手権決勝の日本対韓国戦では、サッカーの奥深さをあらためて学ぶことができました。0-2から3点を取り返しての逆転劇。90分の中での両チームの思惑がはっきりと表れ、多くの局面でそれがどちらに転ぶかの紙一重のプレーがありました。体力をどこで使うのか、どのようなタイプの選手をどのタイミングで使うのか、両チームの選手は監督の思いを忠実に遂行したと思います。その結果、たまたま今回は日本が勝ちましたが、韓国でもおかしくはありませんでした。両チームが体力・技術・頭脳・精神力をフルに発揮し、ドラマのような試合を作ってくれました。これこそ「ビューティフル・ゲーム」と呼ぶべきものでした。

 だからこそ、試合後の両代表の選手たちにはお互いをねぎらってほしかった。アジア選手権の決勝の舞台でこんな素晴らしいゲームを作り上げたことを、なぜお互いに認め合わないんだろうと、僕はテレビを見ていて思いました。そのあとの週末にマンチェスター・ユナイテッド対チェルシーというイギリスの強豪同士の試合を見ましたが、試合中の激しさにも関わらず試合後は両チームの選手たちが微笑みながら互いをねぎらうのです。ヨーロッパだけではありません。みなさんは「なでしこ」がW杯で優勝したとき(2011年)、またオリンピックで準優勝だったとき(2012年)、決勝戦後に相手チームの選手たちを抱擁しねぎらっているのを覚えていませんか。勝とうが負けようが、試合後はそうした光景があたりまえなのです。ではなぜ日本の男子たちはそれができないのでしょう。僕はその背景に、メディアが呪文のように語るあの「絶対に負けられない闘い」という考えがあるように思えてなりません。そしてそれは少年サッカーにも影を落としているのです。ここからが本題です。

 サッカーを教えていると、ふと「何のためにサッカーを教えているんだろう?」という疑問がよぎることがます。あるいは親という立場で言えば、「何のために子どもにサッカーを習わせているんだろう?」という疑問です。この問いは、突き詰めると次の問いにたどり着きます――「いったい何のためにサッカーをするんだろう?」。こうした問いはあまりにも根本的なので大人はつい考えるのをやめてしまいます。しかし本当はこの基礎の部分こそ、一番時間をかけて真剣に考えなければいけないのかもしれません。イングランドサッカー協会が発行している『サッカーの心理学』という本の中に「親の力」という章があります。そこではまず、親自身が「なぜ自分の子どもはサッカーをしているのか?」「なぜ私は自分の子どもにサッカーをしてほしいのか?」といった問いを自分自身に問うべきだと書かれています。あらためて考えると、親やコーチがこうした問いに対する答えをいつもはっきりと持っているとは限りませんよね。そこでこの問いの答えとして、この本はあるオリンピック金メダリストの言葉を引用しています。「あなたがこのスポーツに人生の一部を捧げる唯一の正当な理由は、それによってより良い人間に成長するというということである」。

 サッカーをすることでより良い人間になるなんて、なんだか大変なことになってきました(笑)。しかしこれは現場の指導にとって実はとても重要な一節なのかもしれません。というのも指導現場にいると、ともすれば子どもたちのサッカーの技術を向上させることに心が奪われてしまい、その子がサッカーを通じてどのような人間に成長しているかという視点が疎かになってしまうのです。

 例えば最近のJr.の練習試合でのことです。相手は強豪チームでしたが、その中でも突出した選手がいました。しかしその子は試合中に緑山SCの選手と身体がぶつかると、「死ね!」と吐き捨てるのです。試合中それは何度も繰り返されました。その子は自分のチームの選手がミスをすると、文句を言います。チームメイトは一生懸命プレーしているのですが、その子に文句を言われるので辛そうでした。僕はそのチームの指導者を観察していましたが、サッカーの技術の話ばかりしていて、そうしたことについては何も触れていないようでした。そういうクラブは得てして形式的な礼儀などには口うるさかったりします。しかし形式に心はこもらないのです。おそらくこのままであれば、その子にとってサッカーは良い仲間を作ったり、人間性を豊かにするツールとはならないでしょう。他者を大切にすることを学ばずに、自己を肥大化させる手段となっているのですから。もしその子が「将来は海外で活躍したい」と思っているとしても、他者へのリスペクトがますます重要視されている現在のサッカー界では、そのような選手はピッチに立つことさえ許されません。大人が技術にばかり執着して「よりよい人間性を育めているか」という視点を疎かにすると、結局はその選手の才能を潰してしまうわけです。

 「何のためにサッカーをするのか」という問いについて、また別のヒントもあります。以前あるインターネットの記事で、少年サッカー指導者の役割は何よりも優れた選手を育成することである、と語られていました。僕は一見正しそうなその記事を読んで、二重に間違っているなと思いました。一つは、優れた選手を育成したその先に何が待っているのかをこの著者は知らないか、知っていてあえて書いていないということです。僕の友人で、少年期からサッカーエリートの道を歩み「プロ」のカテゴリーまで進んだ才能に恵まれたアスリートが現実的にどのような収入でどういった生活環境にあるかを調査している研究者がいます。彼の話によれば、Jリーガーというと一見華やかですが、本当に収入の面で余裕のある暮らしができるのは中でも限られた一部だそうです。下世話な話ですが手取り十数万円、しかも来年の契約があるかどうかわからないといった状態の選手が多数なのです。また、僕の友人に代表クラスの選手を何人も抱える代理人の方がいますが、彼に話を聞くと、代表に選ばれるようなトップ選手でも精神的に追いつめられることが少なくないといいます。怪我や監督交代などでいつ契約を切られるか分からないというリスクの伴う職業ですから、収入はあっても精神的な不安は付きまとうわけです。こうした裏事情が普通の少年サッカーの保護者に届くことはなかなかありませんし、メディアは光の部分ばかりを映し出しますから、大人もまたサッカーを上手にすることに夢中になってしまうのです。この記事が間違っているもう一つの点は、サッカーをする資格は上手な子と全く同様に、上手ではない子、運動が苦手な子にもあるということです。これは意外と盲点かもしれません。最近出版された少年サッカー指導についてのある本は上から押しつけようとする「残念な」親や指導者を批判する内容でしたが、一見うなずけそうなその本の取材対象は海外の一流チームの育成現場や、三人の息子をプロにした父親でした。押しつけるから本来優秀になるはずの才能が開花しない、だから日本サッカーは弱いというわけです。しかし当然のことながらすべての子どもたちが日本サッカーを強くするためにサッカーをしているわけではありませんし、親もコーチもそんなことのために自分の時間と労力を使っているわけではないはずです。2011年に施行されたスポーツ基本法の前文には“全て”の人々がスポーツを通じて幸福で豊かな生活を営む権利があると明記されています。その豊かさとは身体を動かすことそのものの喜びであったり、自分に自信を持つ喜びであったり、友人とともに楽しみを共有する喜びといった事ではないでしょうか。指導者の役割は何も優れた選手を育成することに限りません。発達が遅い子、運動が苦手な子が同様に持つスポーツを楽しむ権利を、サッカーを通じて実現させることも重要な役割なのです。

 自信を持って言えますが、現在の緑山SCのコーチ陣は皆こうしたことを真剣に考えて指導に当たっています。しかしここまで読むと、「じゃあ、サッカーを上手にしなくていいのか?」という疑問が浮かぶかもしれません。緑山SCはサッカーを上手にしていないんでしょうか?ここから話は技術論へと急展開です!

 そもそも「サッカーが強い」とか「サッカーが上手い」とはどういうことなのか、深く研究し考察した人ほどその答えは一概に言えなくなります。逆に、何をもって「強い」とか「上手い」と言っているかで、その人がどのぐらいサッカーを真剣に考えているのかがわかるのかもしれません。これに関して、最近二つ、面白い体験をしました。

 5年生のある招待試合。相手のチームがとても強く緑山は0-8ぐらいで負けました。試合後、審判をしてくれた他チームのコーチに挨拶をしにいきました。するとそのコーチが「いやー、お強いですね」と言うのです。僕はその方が勘違いしているのかと思い、「いえいえ、強いのはあちらのチームですから」と答えました。すると彼は、「いや緑山さんも強かったです。みんながちゃんと判断してて、その判断もすごく早くて。いいチームだなぁと思いました。」と言ってくれました。「そう言っていただけると嬉しいです。うちは焦らずゆっくりなんです。」と言うと、「それも伝わってきました。長い目で育ててるんですね。勉強になります。」と返してくれました。

 4年生の緑山杯。観戦していると急に背後から「有元先生ですよね?」と話しかけられました。なんと学会の先輩で、今回招待したあるチームに息子さんが所属しており、偶然お会いすることになったのです。その方は昔九州で高校サッカーの指導をされ全国ベスト8に進出、その後NPO法人で少年サッカークラブを立ち上げて、全国大会決勝まで導かれた経歴の持ち主です。その方が緑山についてこう話してくれました。「うちのコーチたちと、“見て、緑山パス10本つないでるよ”って驚いてたんですよ」。

 僕が感心したのは、こうした方々の「観察する目」です。勝った負けた、何点取った取られた、ドリブルで何人抜いた、あの選手は足が速い...こうした目に映りやすい部分に捕らわれていては見えないことを、この方々は見抜いていました。5年生の判断を褒めてくれた方が観察していたのは、ボールを受ける前、受けた後の選手の姿勢、顔の角度、目線、そして判断をしてからアクションまでのスピードです。目まぐるしくボールが動く中でそれぞれの選手がどこを見て、どう判断し、動くか。彼の眼には、緑山の選手がみんな「状況をよく見て」「素早い判断の伴ったプレーをしている」ことが映ったのです。サッカーにおいて試合に勝つ要素は様々です。緑山はその試合で大敗しましたが、そこには理由があります。足の速い身体の大きな選手のドリブルを止められなかったこと。チャンスのときに良いキック、良いシュートが蹴れなかったこと。これらはいわゆる「フィジカル」の問題で、年齢とともに解決していきます。それが分かっているからこそ、その方はそこに目を奪われず、緑山の選手たちの状況判断能力の高さに驚いたわけです。

 4年生の緑山杯でも開口一番「パス10本」と言われて、やっぱり見える人には見えるんだな、と思いました。これを読んでいるみなさん、例えば少年サッカーの全国大会決勝で、シュートまでの平均的なパスの本数ってどのぐらいかわかりますか?正確には測定していませんが、試合を観る限り3本前後です。つまり相手からボールを奪って、1本目か2本目にサイドの選手に当てて、その選手がドリブルしてクロス、シュート、みたいな流れがほとんどです。パスなんて2,3本で、みんながどんどん前に蹴って運んでシュートまでいくわけです。日本代表やガンバ大阪のようなパスを何本もつなぐサッカーは8人制では全く主流ではありません。決勝ということは6年生でそうですから、ましてや4年生で6本も7本もパスがどんどん回るというのは普通ではない。だからその方は驚いたんです。その方がもう一つ言われていたのは、緑山の選手はミスの意味が分かるということでした。つまり、結果としてミスになったとしても、そのプレーがどういう状況判断から生まれたのか、選手が何をしようとしていたのかが分かるということです。

 何を隠そうこのお二人が見抜いたのは、まさに緑山SCが現在Jr.を中心に取り組んでいる育成法、そして少しずつ出始めているその成果なんです。数年前から手塚徹コーチとサッカーの育成理論についてお互いの知識・情報・経験を持ち寄って、日本サッカー協会の提唱するゴールデンエイジまでの技術習得、通称“パーフェクトスキル”はどの程度正しい概念なのか、最近流行のボール技術特化型育成はどうなのか、などについて何度も語り合ってきました。もちろん「優れたサッカー選手」の育成についてそれらに多くの長所があることは知っていました。しかし僕たちが疑問に思ったのは、それが「よい人間性を育む」ことにつながる育成プランなのかということでした。子どもたちは心理的に発達していく中で自己中心的な世界から徐々に社会的な広がり、他者との関係のある世界へと入っていきます。そして他者を感じ、他者と共感することを習得していきます。協会はボールを止める・蹴る・運ぶ技術の習熟を提唱するわけですが、そこにはせいぜいそれを妨害しようとする相手がいるぐらいで、基本的にそれらは自己完結的な行為です。しかしサッカーとは本来より状況依存的なものであり、味方や相手選手の配置などその時々の状況の中でどのようなプレーを選べるかが重要であって、そうすると「ボールを止める」の前に状況を把握するための「見る」があるはずなのです。その見た先に相手がいるし仲間がいる。自分の状態が良ければドリブルをするし、自分より状態の良い仲間がいればパスをする。そしてそれを“自分で”決める。したがってそうした状況判断能力の育成は仲間と協働する能力(他者を感じ、共鳴する能力)の育成とセットになるべきなのですが、協会のプランではこうした部分は技術習得の後になっているのです。

 そこに疑問を感じた僕たちは現在、コーチ陣が連携して、「見る能力」「判断する能力」の育成に取り組んでいます。もちろん判断した後に何ができるかという部分で技術的な選択肢を増やすことは非常に重要ですし、また、ボール保持者のサポートをする周囲の選手の動き(オフザボール)の質を上げることも重要ですので、そこも同時にトレーニングしています。しかし何よりも大事なのは、選手が「見て判断しているか」をコーチが常に確認し、その結果生じたミスを咎めないことです。サッカーは人生と同じようにトライ&エラーの連続です。試行錯誤しながら経験をストックして次の判断につなげていくわけです。コーチや親が、目先の1点、目先の1勝のために子どもたちのエラーを咎め、自分で判断する機会、トライする自由を奪ってしまえば、その試合には勝つかもしれませんがその子の未来の能力に少し蓋をしたことになるのです。

 さて、そろそろ話を締めくくりたいと思います。僕たちもこれが最善の育成法である、などというつもりはありません。サッカーの方法論は多種多様で、育成にもいろいろな方法・プランがあっていいのです。ただ一つ言えることは、緑山の現在のスタイルが、サッカーを通じて豊かな人間性を育むという基本理念に基づき、仲間を感じること、仲間と共にプレーするということを軸として、つまり他者とのつながりを構築する能力の育成を軸として出来上がりつつあるということです。しかしこれはドリブルよりもパスを優先する、ということでは全くありません。実際のゲームを見てもらうと分かるように、緑山の選手たちはドリブルもパスも使います。よくパスかドリブルか、個か集団か、みたいな二者択一でサッカーを語る人がいますが、おそらくサッカーはそんなに単純に割り切れるスポーツではないのです。緑山の選手たちは状況と自分の能力に応じてパスかドリブルかを選択しています。そしてその中で仲間を信頼すること、助けること、リスペクトすることを学んでくれているのだと思います。緑山の選手でプレー中に相手選手や仲間を罵ったり、文句を言ったりする子はいません。そして技術の高い子たちも威張ることなく、みんなを信頼してパスを回します。これがどれほど貴重なことなのかはいくら強調しても足りません。これは周囲の大人が勝ち負けを超える価値を長い目で子どもたちの中に育もうとしているからこそ実現できていることなのです。

絶対に負けられない闘いなど、どこにもないのです。